善光寺坂のムクノキ


妻の父方の墓が伝通院にあって、いつのころからか、月に一度墓参りに行くようになった。

谷中からぶらぶら歩いて団子坂を白山方向へ。
鴎外先生の記念館の角を曲がり、住宅街のなかを右へ左へ縫いながら日本医大。
漱石先生の住まい跡にいる、散歩途中のお猫さんの像。
「夜雨最中」の一炉庵を過ぎて東京大学のグラウンド、農学部の敷地の角をさらに曲がって交番前。
そこを渡ってゆるい下り坂を降り、春日の交差点を越すと、こんにゃく閻魔さまだ。
ここで一息つき、一束百円のお線香代を賽銭箱に入れて香炉の灰に線香を立て、まずはお世話になった亡き先輩に手を合わせる。
文豪たちの気配をかすめて歩くこの道は、ぼくにとって、墓参りの前の小さな巡礼のようなものだ。

ここから小石川の裏道を抜け、家々の並ぶ善光寺坂をのぼれば、伝通院まではあとわずか。
と、その坂の途中に、辺りの植栽のなかでひとり異彩を放つ、巨人の脛ほどもある太いムクノキが忽然と現れる。

文京区の天然記念物に指定されたこのムクノキは、推定樹齢四百年を超える老樹だ。
第二次世界大戦の空襲で上部が焼け落ち、いまの樹高は約十三メートルだが、大正のころは二十三メートルを超える大木だったという。
じつはこのあたりも、江戸のころは伝通院の境内。ムクノキは、すぐそばに祀られた伝通院の鎮守、澤蔵司稲荷のご神木だった。

もっとも、そんなことを知る前から、この巨樹の前に来ると、辺りを庇うようにひろがる枝ぶりと青々と茂る葉に、底知れぬ樹の強いチカラを感じ、毎度気圧されてとても素通りする気にはなれない。思わずキャップを脱いで、両手を合わせてしまうのだ。

焼かれ、背丈を十メートルも失ってもなお枝をひろげている古木。秋には小さな黒い実をつけ、鳥たちがそれをついばみに来る。
ざらついた葉は、むかしは木地を磨く道具にも使われていたそうだ。

ひとの暮らしのそばで、ひとの手に触れられながら、四百年。この樹の前に立つと、自分の一生などほんの一粒の雨水にも満たない、小さな気泡に思えてくる。

そして、江戸に根を張るこの樹の真向かいにあったのが、露伴先生の蝸牛庵だ。
『五重塔』で知られる明治の文豪、幸田露伴。その娘の幸田文、さらに孫の青木玉へと続く、作家一族の住まいで、いまも門には表札がかかっている。
文先生は晩年、各地の木を訪ね歩いては随筆に綴った。のちに『木』という一冊にまとまっている。
幸田家、青木家の作家たちは、家の前に立つこのムクノキと、どんな対話をしていたのだろう。

そういえば露伴先生は若いころ、北海道の余市に電信技手として赴いていたそうだ。
江戸の繁華な町に生まれ育った人が、北の後志の海をどんな思いで眺めていたものか。
小樽に生まれたぼくには見慣れた、暗黒色のあの海を。

結局、若き露伴先生は職を投げうち、東京へと歩いて帰ってしまう。
露伴という名も、その道中に詠んだ句から生まれたと聞く。
露と伴に寝る者。ずいぶんと儚い名を選んだものだ。
けれど、その露のような名の人の家は、四百年の樹に見守られながら、娘から孫へ、さらに次の世代へ繋がっている。
儚さと、しぶとさ。どちらも、生きているものだけが持つ宝物なのだろう。

ムクノキに一礼してから、伝通院に向かう。

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